社会の中で自立した自己を形成するために大切なこと?

 自己形成に必要な基本要素として、承認・居場所・存在意義があげられる。

これらが満たされていれば情緒的に安定し、直面するさまざまな問題に対して前向きにとり組むことができるとされている。そこに関しては異論はない。しかし、これらの基本要素の獲得については、注意が必要である。

 まず外部からの情報により、欲求や自己に認識が過剰に肥大化し、現実の自分を見失ってしまうことだ。承認・居場所・存在意義を外部に求めすぎ、共依存適応障害に陥る。経済的評価・交友・恋愛・所属・成果など他者により認められないと自分を認識できなくなってしまう。その結果、外部の要求・期待にこたえるため感情を抑圧し自分を演じことになる。それが、自分が何者かわからなくさせ、アイデンティティを拡散をおこし、何もできなくなり、いずれ限界が来る。そして、無気力・無関心・無感動(アパシー)となり心を閉ざしひきこもる。

 これが、評価経済社会のもたらす悲劇である。景気のいい時代では、まだ経済的恩恵があったので、そこから他の欲求を表面上満たすことができたのでやっていけた。しかし、それがなくなった現代においては外部に依存すことができるのはごく一部の恵まれた者にのみ先天的に与えられるものでしかない。

 では、いかにすべきかというと、「身の程を知って諦観する」そのためには、経験から自分を知る。自己の現実的認知である。そこから、現実に対する共感、認知、調和を目標とする。外部からの情報に惑わされず自己を確立し、自己受容、自己肯定、自己有用感をもち、承認・居場所・存在意義のある自立した自己を形成することが望ましい。

だが、そんなことのできる人間もごく一部の聖人・賢者でしかない。ここでもまた行き詰る。

 最終的な結論は、「ダメな自分を受け容れる」であろう。所詮人間は煩悩具足のかたまり、いくら理屈で分かっていても現実レベルでは行動できないことの方がおおい。よって、いかに愚かで惨めで無様な自分を認識し受け容れるかである。そのためには、小さな不安、小さな失敗を繰り返し認識する。そして、懺悔、慚愧する。その反復が少しでもマシな自分になるための方法であろう。つまり、自立した自己とは、小さくてもいいので自分の中に自己承認できる居場所をつくり存在意義をかんできるようになることである。