親切と忍耐の真意 不純な動機の罠

「雑毒の善」おそらく自分の失敗はここにある。

真面目に努力する。相手の期待に応える。我慢して譲る。自己犠牲。

忍耐して耐える。辛抱してやり過ごす。人に親切にする。

これらは、一見、高尚なことに思うが動機が不純であれば、

悪徳でしかない。

動機が不純なら、それが思い通りにならなかったとき、

期待した見返りがない・評価、承認されない。感謝がない。

雑に扱われた。お礼がない。

これだけ頑張ったのに、相手の態度に不服を持つ。

それになるということは、下心があったのだ。

辛いこと、しんどいこと、苦しいことをすれば報われるという

思い込みがあったのだ。そこから幸せになれる、成功できるという

思い込み、決めつけがあった。

現状の報われなさからその気持ちが転じて

不平不満・愚痴悪口・誹謗中傷に変わる。

妬み・嫉み・執念深さ・悪口・不平不満・愚痴

となる。そして、またループする。

ではどうするか、

雑毒の善を消すことはできない。煩悩と同じで

人間とセットで存在するものであって、悟りを開くか

相当な恵まれた資質や環境の者にしかできない。

ゆえに、自分がそのようなものを持っていると認識する。

そこから、それが出ないようにつまりは親切をしても

誰に、何を、私がしたということを意識しない。

そして、自分がやってあげたという傲慢な考えや態度は出さない。

ここが重要、つまり本当の忍耐・辛抱・我慢は親切をしたり

努力をしたりして見返りを求める心を抑えるために使う。

これだけやったのに見返りがない。認められない。誉められない。

感謝されない。お礼がない。という心が本当に相手にすべき

対象なのだろう。

資本主義社会の経済合理性の今の世ではこれが一番難しいのかもしれない。

しかし、ここが出来れば成熟した人間と言えよう。

だが、我慢のし過ぎは良くないので、言うべきはしっかり言っていこう。